Opera Report

オペラ公演、映像の感想など

2016.9.19 あいちトリエンナーレ2016 プロデュースオペラ「魔笛」

愛知県立芸術劇場 大ホール 15:00開演

 

3年に一度開催される「あいちトリエンナーレ」。現代アートが中心の芸術祭で、この劇場内にもところどころにインスタレーションが配置されたりしている。

今回は、ダンサーの勅使河原三郎氏が演出・美術・照明・衣装を手掛け、「いままで見たことないオペラ」を創る、という前評判だった。確かに、今まで見たことのないような奇妙な衣装も登場し、マニフェストは達成されたのかもしれないが、肝心の「作品の醍醐味」のようなものがすっかり抜け落ちてしまっていた。

 

 

固めのバチで打たれるティンパニが特に目立った序曲。神々しさを表現するトロンボーンの和音も爽やかに響いた。オケは東海地方を代表する、名フィル。この曲の後半で幕が開けられ、ヒョウ柄のような衣装をまとった東京バレエ団ダンサーたちが、ランダムに立っている。やがて、彼らの動きや歩みは速くなり、「混沌」を表すような動きをしているようにも感じられた。

勅使河原氏の演出ノートには「圧倒的な自然の力に対して塵のような弱い人間が物語の基盤をなしている。」という一文が書かれている。ダンサーの動きは「塵のように弱い人間」が、動物をいたずらに搾取し、地球という場所のあちこちでもがき、いやしくも自然に抗おうする姿を現しているのだろうか。

 

舞台上には全幕を通して何もなく、銀色の様々な大きさのリングが宙に浮かんでいるのみ。これらが様々なフォーメーションを組み、舞台が進行していく。かなり物を削った舞台だ。

登場人物の衣装は、タミーノを除き、黒か白で統一されている。夜の女王、3人の侍女のみが黒く、他は白い。ザラストロ陣営が白、夜の女王派は黒、と受け取れるが、パパゲーノも最初から真っ白な羽を纏っている。パミーナも白が基調のワンピースに、水色のカチューシャとタイツという恰好なので、どちらかというと最初からザラストロ陣営の一員ということか?アリスを思わせる衣装だ。

 

そしてタミーノは、まるでウルトラ隊員のようなビビッドなオレンジ色の上下。彼だけが”色では”異彩を放っている。

”色”だけでなく、すべてにおいて異彩を放っていたのが、モノスタートスと3人の童子。モノスタートスはオバQのような丸みのある白い胴体に、異常に大きい手が2本生えており、足はない。顔も白塗りで、ムーア人(黒人)であることは真っ向から否定されている。3人の童子は、ディズニー映画「ベイマックス」を思わせる、真っ白いジンジャークッキーのような体。手足の自由はかなり制限されている。

その他、2人の僧は手足がないコケシのような姿。全く持って異次元の奇抜さだが、 勅使河原氏は何を表現したかったのだろうか。”鬼才”の頭の中は、凡人には理解が難しい。

 

セリフはすべてカットされ、代わりにピンマイクを付けたダンサーの佐東利穂子が、日本語の語りで繋いでゆく。これにより、物語全体が絵本のようになり、わかりやすいといえばわかりやすい。1幕はこれで良かった。しかし、2幕のタミーノとパパゲーノの試練中のやりとり、パパゲーノと老婆のコミカルな掛け合いがすべて無きものとされてしまい、パパゲーノへの感情移入が著しく削がれる形となってしまった。

 

グロッケンシュピールを鳴らしながら歌うアリア「女房か小鳩が」は唐突に始まり、パパゲーノが首を吊ろうと思う動機も希薄。観客はセリア的なタミーノ&パミーナに感情移入するのではなく、ブッファ的で人間臭いパパゲーノに自己や近しい人を投影して観るのだから、この作品の「庶民的な」醍醐味は半減してしまった。まるで、出汁をとらずに、お湯に味噌を溶いただけの味噌汁。なんとか「オペラ」という体裁は保たれているが、本来この作品が属するはずの「ジングシュピール(歌芝居)」の旨味は感じられなかったのが残念だ。

 

そのような舞台とは対照的に、歌手陣は非常に健闘した。

この役を歌わせたら、国内で現在右に出るものはいないであろう妻屋秀和のザラストロは、今回も堂々たる声。劇場全体を鳴らす声を持つ日本人バス歌手は希少。

 

宮本亜門演出の「魔笛」では夜の女王を歌って大喝采を受けた森谷真理は、今回パミーナで登場。若い時に夜の女王、ある程度歳と経験を重ねてからパミーナを歌うということはよくあることだが、低音の深みはまだあまり感じられなかった。しかし、中高音の響きの充実は目を見張るものがある。ppもよくコントロールされており、2幕のアリアの弱音は特に素晴らしかった。

 

パパゲーノの宮本益光は芸達者で、声も軽快。セリフカットという受難がありながらも、パパゲーノのチャーミングさを保ったのは、彼でなければできなかったのではないだろうか。ダンサーに交じっても見劣りしないほどの軽快な動きには、感心してしまう。

 

亜門の「魔笛」でもタミーノだった鈴木准は、前回よりも声の充実度を感じた。細めの声でありながらも、しっかりと響きと声の密度を感じさせる。王子らしい容姿もプラス。

 

夜の女王を歌った高橋維は、コロラトゥーラの精度が高い歌唱を聴かせた。ただ、他に比べると声量で聴き劣りしてしまうことは否めない。

 

3人の侍女(北原瑠美、磯地美樹、丸山奈津美)は、それぞれの声の個性を感じさせながら、まとまったアンサンブルだった。その他、弁者に小森輝彦、僧に高田正人、武士に渡邉公威小田桐貴樹という、二期会を中心とした豪華なキャスティングであった(小田桐のみ藤原正団員)。

 

以前は「AC合唱団」という名称で活動していた愛知県芸術劇場合唱団も迫力のある合唱だった。良い意味で「ヨーロッパの地方劇場の合唱」の風情があった。ちらほら個々の声が聞こえてくる荒さも感じさせながら、拡がりのあるハーモニー、倍音を聴かせてくれた。

 

最後に、ガエターノ・デスピノーザの指揮は、イタリアらしい遊びが感じられる部分が散見された。「パ・パ・パ」の冒頭部分にアッチェレランドをかけたり、抒情的なアリアの後奏でテンポを落としたり、イタリアオペラの常套手段が、ドイツのジングシュピールにも適用され、面白かった。どう感じるかは個人の好みであろうが、18世紀のコスモポリタンであるモーツァルトを、21世紀にどう演奏するか、様々な試みが行われて然るべきだ、と個人的には思う。

 

メジャーなアートフェスティバルの一環として上演されたオペラだけあって、普段とは違う客層、つまりアート畑の若者や、家族連れの姿も多くみられた。それだけに、作品の魅力が伝わりにくい演出を残念に思うが、既存のオペラファンとは違う目を持った人々にどう映ったかは、知りたいところ。

兎にも角にも、「総合芸術」と称されるオペラを、いろいろな分野の人が寄ってたかって遊ぶのは、非常に好ましいことである。多様な考え方が溶け込む芸術として、オペラが現代に生きていくとよいと思う。