Opera Report

オペラ公演、映像の感想など

2016.1.11 ロームシアター京都プロデュース・オペラ「フィデリオ」セミ・ステージ形式

ロームシアター京都 メインホール 17:00開演

 

1月10日に、京都会館をリニューアルしてオープンしたロームシアター京都のオープニング記念公演。一般の観客を入れての公演はこれが初ということなので、杮落とし公演ということになる。

 

平安神宮の目と鼻の先、話題の蔦屋書店も入っている。この日は向かいの「みやこめっせ」で成人式をしていたということもあり、様々な種類の人々で劇場周辺はごった返していた。周辺警備をしていた警備員は劇場の方の事情をはよく知らないらしく「今日、あれほら、有名な人のオペラやるんやろ。ほら、小澤さんの」という声が聞こえてきた。

 

東京文化会館と同じく前川國男氏の建築。屋根部分のコンクリートの張り出しはほとんどそのまま東京文化だ。

 

劇場に足を踏み入れると、廊下には政治家、芸術家、芸能人ら著名人や、様々な企業から贈られたむせ返るようなスタンド花の数々。人々は初めて入る劇場でクロークを探し求め、スタッフはその案内に追われる。すべてが初めて、そしてすべてが目新しい。

緊張した面持ちの劇場スタッフ、劇場に似つかわしくない無骨なスーツに身を包んで人々を圧倒するようにズラリと並ぶローム社員。良し悪しにかかわらず、劇場のオープンというのはどこかドキドキする。

初めての劇場なので、いつもより早く劇場に入り各階の座席に座っていろいろと試してみる(同じことをしている諸兄を多くお見かけした)。2階以上の席は正面の席でも半分以上の座席が屋根に覆われる。これで聴こえてくる音は大きく変わってくる。特に最上階は頭のすぐ上に照明器具があるような感覚になり、その圧迫感たるやなかなかのものである。

 

京都を拠点に活動する劇団「地点」の三浦基の演出によるセミ・ステージ上演。開演前から舞台上部のスクリーンには客席の俯瞰ライブ映像が映し出され、これから始まるオペラは”ただのオペラ”ではないことが暗示される。

 

通常、オーケストラが陣取るピットは空っぽ。オーケストラは舞台の上におり、その奥に組まれた金属製の足場のようなスペースの上で歌手たちが歌う。ピットの中では赤い装束を身にまとった劇団員が1人、また1人と増えていき、 最大4人が忙しく歩き回る。ぶつかりそうでぶつからない、魔法陣を描くような奇妙な動き。シャマラン監督の『ヴィレッジ』、またはキューブリック監督の『アイズ・ワイド・シャット』を彷彿とさせる。

 

片山氏によるプログラムノートの中でも言及されていたが、「フィデリオ」は”転換””逆転”を象徴的に扱った劇。レオノーレは夫を獄中から救うために(外面的にのみであるにしろ)女から男に”転換”し、権力を振りかざして男の命を意のままに扱う悪漢ドン・ピツァロの立場は、大臣到着のラッパで”逆転”、地に落ちてしまう。当時の人々が肌で感じた「革命」というものを、ベートーヴェンはこの劇の中に見出したのであろう。

この”逆転”を象徴したピットと舞台の扱い方は非常に興味深い。 

ドイツ語のセリフはカットされ、舞台左右に始終立っている赤装束の男女が独特の日本語の語りで劇を進める。以前、地点の「かもめ」を観たが、それと同じような語り口。”言葉のライトモティーフ”とでもいうような、特定の単語にそれぞれの抑揚をつけて読む。個人的にはこのセリフ回しはクセになっており、面白みも感じるが、”オペラ”を観に来た多くの方には奇妙に、そして不快に響いたかもしれない。

 

音楽面では、まず下野竜也のピシっとキマった指揮がいい。京響のシンフォニックな響き、縦の揃ったアンサンブルも非常に小気味よい。

歌手陣はフロレスタン役の小原啓楼の声の力が際立っていたが、それ以外の歌手はオケに埋もれてしまうこともしばしば。マルツェリーネ役の石橋栄実は初めて聴く方。粗削りな部分もあるものの、声自体はレオノーレよりもスッと通っていた。

黒ずくめの合唱は客席に手を振りながらピットから舞台に上がり、最後には舞台奥のスクリーンがすべて取り払われ、ナマの舞台裏が露わになる。これ、どこかで見たことがあるがどこだったろう。思い出せない。

 

フード付きの赤装束が、いくら逃げても逃げ切れない呪縛のように脳裏にチラチラと蠢く。それをベートーヴェン歓喜の音楽が追い払い、幕となった『フィデリオ』。しかしあいつらは、舞台の奥でなおも蠢いていた。

 

ロームシアター京都 公演ページ

「フィデリオ」セミステージ形式|公演・イベント|ロームシアター京都

2000.6.6 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅠ モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」

Seiji Ozawa Ongaku-juku Opera Project Ⅰ

W.A.Mozart: Le Nozze di Figaro

 

東京文化会館 大ホール 18:30開演

 

アルマヴィーヴァ伯爵:オラフ・ベーア

Il Conte di Almaviva: Olaf Bär 

 

伯爵夫人:クリスティン・ゴーキー

La contessa di Almaviva: Christine Goerke

 

スザンナ:サリ・グルーバー

Susanna: Sari  Gruber

 

フィガロ:ジェラルド・フィンリー

Figaro: Gerald Finley

 

ケルビーノ:ルクサンドラ・ドノーゼ

Cherubino: Ruxandra Donose

 

マルチェリーナ:ジュディス・クリスティン

Marcellina: Judith christin

 

バルトロ:ドナート・ディ・ステファーノ

Bartolo: Donato di Stefano

 

バジーリオ:デニス・ピーターセン

Basilio: Dennis Petersen

 

ドン・クルーツィオ:アンソニー・ラチューラ

Don Cruzio: Anthony Laciura

 

バルバリーナ:藤田 美奈子

Barbarina: Minako Fujita

 

アントニオ:ジェームズ・コートニー

Antonio: James Courtney

 

サンフランシスコ・オペラ・オリジナル・プロダクション使用

 

塾長・指揮:小澤征爾

Director & Conductor: Seiji Ozawa

 

演出:デイヴィッド・ニース

Stage Director: David Kneuss

 

管弦楽小澤征爾音楽塾オーケストラ

Orchestra: Seiji Ozawa Ongaku-juku Orchestra

 

合唱:小澤征爾音楽塾合唱団

Chorus: Seiji Ozawa Ongaku-juku Choir

 

装置・衣装:ザック・ブラウン

Scenary and Costumes: Zack Brown

 

照明デザイン:高澤立生

Lighting Design: Tatsuo Takazawa

 

副指揮:北原幸男、横島勝人

ヴォーカル・コーチ:ピエール・ヴァレー

合唱指揮:江上孝則

コレペティトゥーア:小林万里子、小助川真美

演出助手:小澤征良

技術監督:小栗哲家

舞台監督:飯塚励生

 

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当時小学生だった私が、生まれて初めて見た生のオペラ。そのせいもあってか、全てが美しく、生々しい印象が残っている。初心者にはもってこいのオーソドックスで豪華な舞台、ほとんどの歌手が海外勢ということで、ビジュアル的にも初体験にはよかったのではないだろうか。

 

この舞台が良かったせいで、私は今でも”オペラ”の呪いにかけられたまま、抜け出すことができずにいる。

 

20世紀末はオペラDVDが出始めた時期で、家庭で観ることができるタイトルがじわじわと増えていった。もちろん私も数タイトル観て予習をして臨んだが、今と比べるとその数は雲泥の差。≪フィガロ≫といえばベーム指揮のオペラ映画と、ショルティ指揮パリ・オペラ座、ストレーレル演出の画質の悪い映像ぐらいのものだった。

 

実際舞台に触れてみると、目の前で繰り広げられる目くるめく扮装劇、グローバリズムが始まりかけていた20世紀末からはかけ離れた、なんたるエキゾチシズム!(その頃の私からすると18世紀の音楽劇は異国情緒あふれるものに感じたものだ)。まぁ、このキャストを見てもわかるように、オペラこそがグローバリズムを凝縮したような市場なのだが、年若き自分にはそんなことは分からず、ひたすらに西欧いにしえの文化の香りに酔ったのだった。

今振り返ってみると、MET常連を中心とする名手が揃っていた。小澤氏がウィーンのオペラの監督になるはるか前のことである。ベーアは言わずと知れたリートの旗手であるし、フィンリーは本国英国で今やワーグナー作品の主役で人気を博している。ドノーゼもロッシーニ作品の主役でDVDが出ているし、クリスティン、ラチューラは90年代のMETを支えた名脇役で、映像作品も数多い。

 

”音楽塾”ということで、オーケストラや合唱団に若い音楽家を据え、音楽教育を目的に開催していたのだろうが、客席でも少数ながら私のような”塾生”が生まれていた。若い観客を育てるということはこの事業の主目的ではないであろうが、小澤氏は各地で小さな聴衆を増やす試みを数多く行っている。それをはなれていても、”本物”をやるということは新たな観客を増やすことにつながるということなのだろう。そもそも、観に来てくれないことには何もならないが・・・。