読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

オペラ・レポート Opera Report

オペラ公演のレポート、オペラ映像の視聴記録など

2016.9.19 あいちトリエンナーレ2016 プロデュースオペラ「魔笛」

愛知県立芸術劇場 大ホール 15:00開演

 

3年に一度開催される「あいちトリエンナーレ」。現代アートが中心の芸術祭で、この劇場内にもところどころにインスタレーションが配置されたりしている。

今回は、ダンサーの勅使河原三郎氏が演出・美術・照明・衣装を手掛け、「いままで見たことないオペラ」を創る、という前評判だった。確かに、今まで見たことのないような奇妙な衣装も登場し、マニフェストは達成されたのかもしれないが、肝心の「作品の醍醐味」のようなものがすっかり抜け落ちてしまっていた。

 

 

固めのバチで打たれるティンパニが特に目立った序曲。神々しさを表現するトロンボーンの和音も爽やかに響いた。オケは東海地方を代表する、名フィル。この曲の後半で幕が開けられ、ヒョウ柄のような衣装をまとった東京バレエ団ダンサーたちが、ランダムに立っている。やがて、彼らの動きや歩みは速くなり、「混沌」を表すような動きをしているようにも感じられた。

勅使河原氏の演出ノートには「圧倒的な自然の力に対して塵のような弱い人間が物語の基盤をなしている。」という一文が書かれている。ダンサーの動きは「塵のように弱い人間」が、動物をいたずらに搾取し、地球という場所のあちこちでもがき、いやしくも自然に抗おうする姿を現しているのだろうか。

 

舞台上には全幕を通して何もなく、銀色の様々な大きさのリングが宙に浮かんでいるのみ。これらが様々なフォーメーションを組み、舞台が進行していく。かなり物を削った舞台だ。

登場人物の衣装は、タミーノを除き、黒か白で統一されている。夜の女王、3人の侍女のみが黒く、他は白い。ザラストロ陣営が白、夜の女王派は黒、と受け取れるが、パパゲーノも最初から真っ白な羽を纏っている。パミーナも白が基調のワンピースに、水色のカチューシャとタイツという恰好なので、どちらかというと最初からザラストロ陣営の一員ということか?アリスを思わせる衣装だ。

 

そしてタミーノは、まるでウルトラ隊員のようなビビッドなオレンジ色の上下。彼だけが”色では”異彩を放っている。

”色”だけでなく、すべてにおいて異彩を放っていたのが、モノスタートスと3人の童子。モノスタートスはオバQのような丸みのある白い胴体に、異常に大きい手が2本生えており、足はない。顔も白塗りで、ムーア人(黒人)であることは真っ向から否定されている。3人の童子は、ディズニー映画「ベイマックス」を思わせる、真っ白いジンジャークッキーのような体。手足の自由はかなり制限されている。

その他、2人の僧は手足がないコケシのような姿。全く持って異次元の奇抜さだが、 勅使河原氏は何を表現したかったのだろうか。”鬼才”の頭の中は、凡人には理解が難しい。

 

セリフはすべてカットされ、代わりにピンマイクを付けたダンサーの佐東利穂子が、日本語の語りで繋いでゆく。これにより、物語全体が絵本のようになり、わかりやすいといえばわかりやすい。1幕はこれで良かった。しかし、2幕のタミーノとパパゲーノの試練中のやりとり、パパゲーノと老婆のコミカルな掛け合いがすべて無きものとされてしまい、パパゲーノへの感情移入が著しく削がれる形となってしまった。

 

グロッケンシュピールを鳴らしながら歌うアリア「女房か小鳩が」は唐突に始まり、パパゲーノが首を吊ろうと思う動機も希薄。観客はセリア的なタミーノ&パミーナに感情移入するのではなく、ブッファ的で人間臭いパパゲーノに自己や近しい人を投影して観るのだから、この作品の「庶民的な」醍醐味は半減してしまった。まるで、出汁をとらずに、お湯に味噌を溶いただけの味噌汁。なんとか「オペラ」という体裁は保たれているが、本来この作品が属するはずの「ジングシュピール(歌芝居)」の旨味は感じられなかったのが残念だ。

 

そのような舞台とは対照的に、歌手陣は非常に健闘した。

この役を歌わせたら、国内で現在右に出るものはいないであろう妻屋秀和のザラストロは、今回も堂々たる声。劇場全体を鳴らす声を持つ日本人バス歌手は希少。

 

宮本亜門演出の「魔笛」では夜の女王を歌って大喝采を受けた森谷真理は、今回パミーナで登場。若い時に夜の女王、ある程度歳と経験を重ねてからパミーナを歌うということはよくあることだが、低音の深みはまだあまり感じられなかった。しかし、中高音の響きの充実は目を見張るものがある。ppもよくコントロールされており、2幕のアリアの弱音は特に素晴らしかった。

 

パパゲーノの宮本益光は芸達者で、声も軽快。セリフカットという受難がありながらも、パパゲーノのチャーミングさを保ったのは、彼でなければできなかったのではないだろうか。ダンサーに交じっても見劣りしないほどの軽快な動きには、感心してしまう。

 

亜門の「魔笛」でもタミーノだった鈴木准は、前回よりも声の充実度を感じた。細めの声でありながらも、しっかりと響きと声の密度を感じさせる。王子らしい容姿もプラス。

 

夜の女王を歌った高橋維は、コロラトゥーラの精度が高い歌唱を聴かせた。ただ、他に比べると声量で聴き劣りしてしまうことは否めない。

 

3人の侍女(北原瑠美、磯地美樹、丸山奈津美)は、それぞれの声の個性を感じさせながら、まとまったアンサンブルだった。その他、弁者に小森輝彦、僧に高田正人、武士に渡邉公威小田桐貴樹という、二期会を中心とした豪華なキャスティングであった(小田桐のみ藤原正団員)。

 

以前は「AC合唱団」という名称で活動していた愛知県芸術劇場合唱団も迫力のある合唱だった。良い意味で「ヨーロッパの地方劇場の合唱」の風情があった。ちらほら個々の声が聞こえてくる荒さも感じさせながら、拡がりのあるハーモニー、倍音を聴かせてくれた。

 

最後に、ガエターノ・デスピノーザの指揮は、イタリアらしい遊びが感じられる部分が散見された。「パ・パ・パ」の冒頭部分にアッチェレランドをかけたり、抒情的なアリアの後奏でテンポを落としたり、イタリアオペラの常套手段が、ドイツのジングシュピールにも適用され、面白かった。どう感じるかは個人の好みであろうが、18世紀のコスモポリタンであるモーツァルトを、21世紀にどう演奏するか、様々な試みが行われて然るべきだ、と個人的には思う。

 

メジャーなアートフェスティバルの一環として上演されたオペラだけあって、普段とは違う客層、つまりアート畑の若者や、家族連れの姿も多くみられた。それだけに、作品の魅力が伝わりにくい演出を残念に思うが、既存のオペラファンとは違う目を持った人々にどう映ったかは、知りたいところ。

兎にも角にも、「総合芸術」と称されるオペラを、いろいろな分野の人が寄ってたかって遊ぶのは、非常に好ましいことである。多様な考え方が溶け込む芸術として、オペラが現代に生きていくとよいと思う。  

2016.6.6 東京文化会館 プラチナ・シリーズ1 クラウス・フロリアン・フォークト

東京文化会館 小ホール 19:00開演

 

新国立劇場ローエングリン」のタイトルロールで、ここ数週間の東京のオペラ・シーンがフォークト一色に染まっている感がある。その彼が歌う「美しき水車屋の娘」(個人的には長年親しんだ「水車小屋」という呼び名の方が、日本語としてはシックリくるが、最近はこの表記が多い)。

 

2013年の東京・春・音楽祭でも同プログラムで同会場に登場したフォークト。その時は会場に足を運べなかったが、聴いた方の話を聞くと、今回は3年前より成長し、円熟味を増した歌唱になっていたのではないだろうか。今回もチケットは完売し、名前の通りプラチナ・チケットとなった。

 

フォークトの声は、流れるように自然で、ナイーブで、優しい。比類なき美しさを誇る高音は、「力強く張る」というのではなく、空気を自然に振動させているかのよう。まるで声に翼が生えており、聴衆の頭上を軽やかに飛びまわっているかのような感覚である。

 

この作品は「冬の旅」と並ぶシューベルトの偉大な歌曲集であるが、現代の私たちから見ると、どちらも”偉大なる中二病作品”とでも呼びたくなるような内容だ。若い男が恋をし、破れ、絶望し、その身を自然に委ねる。若さからくる「青さ」が惜しげもなく盛り込まれている。

中二病”と揶揄するような言葉を使ったが、これは決して悪いことではなく、誰もが通る道なのだ。心の中に描く「美しい娘」は人それぞれであろう。自分の若かりし頃のパーソナルな記憶にまで入り込む、優しく、切ない旋律。それを、触れば壊れてしまいそうなナイーブさを持つフォークトの声で聴けたのだから、満足度は高い。

 

フォークトのドイツ語は、なぜかまろやかだ。ドイツリートというとツバを飛ばして歌っている印象があったが、彼が歌うと時にフランス語のような柔らかさすら感じる。私はドイツ語が話せるわけではないが、ドイツ人が聴くと彼の発音はどうなのだろうか。私には舌足らずのようにも聞こえるのだ。これがまた、得も言われぬ「未熟さ」「若さ」を感じ、この作品には合っているようにも思える。

 

今回は「ローエングリン」では感じなかった、弱点も垣間見えた。それは中低音での早口。それは7曲目「いらだち」や、11曲目「僕のもの!」で感じた。しかし、各節の最後には彼の得意な高音が待ち構えており、「終わりよければすべてよし」となってしまった。それにしても、しみじみと語りかけるように歌う部分や、高音の伸びは素晴らしい。弱点を補って余りあるが、ここをクリアしてしまったら、それこそ怪物のようなスーパーテノールだ。

 

ヨプスト・シュナイデラートは、全編を通してフォークトに寄り添ったピアノを聴かせたが、3連符など細かい音の粒が荒い部分も。

 

配られた対訳はバリトンの河野克典氏によるもの。非常に読みやすく、違和感なく入ってくるものだったが、会場が暗すぎて演奏中に目を遣ることはできなかった(対訳をめくる音に注意、とアナウンスが入っていたが、私よりも歳の多い人がほとんど故、誰も見なかっただろう)。しかし、これがけがの功名。舞台上のフォークトを観ていると、ドイツ語が完璧に分からずとも、なぜか内容が分かるのだ。これはリート歌手に持っていてほしい能力の1つ。

 

オペラ、リートを通じてレパートリーはまだ多くないフォークトだが、ゆっくりとリートのレパートリーも増やしてほしいと思わせる宵であった。じっくり歌いこんで、声を壊さぬように活躍を続けてほしいものだ。

2016.5.23 新国立劇場「ローエングリン」

新国立劇場 オペラパレス 17:00開演

 

2012年のプレミエでもタイトルロールを歌い、日本のオペラ界に衝撃を与えたクラウス・フローリアン・フォークトが、また同役を歌った。他の誰とも違う、まっすぐで澄んだ声でありながら、声量は十分。音の変わり目でも全く角のない声は、まるで丁寧に濾した生クリームのよう。天衣無縫の声とは、まさにこのこと。

 

ローエングリン”という、一般の人間からかけ離れた騎士の役にはぴったりの声と容姿。所謂「ヘルデン・テノール」というのとは違うのかもしれないが、彼が舞台上に現れると、そこにローエングリンそのものが現れたような錯覚に陥る。

 

エルザを歌ったマヌエラ・ウールも、典型的なワーグナー・ソプラノではなかった。非常にリリックな声で、まるでパミーナを聴いているかのよう。それでいて声量も十分。見た目も小柄で、夢見る乙女像にぴったりとはまった。ワグネリアンの皆様の目には、この主役2人がどのように映ったかはわからないが、ワグネリアンでない私は、説得力があり、とても自然であると感じた。

ハインリヒ王のアンドレアス・バウアーは、若いながらも底鳴りがするような、素晴らしい低音を聴かせてくれた。オペラの冒頭からハッとさせられる声。ザラストロなんかで聴いてみたい(さっきから喩えが「魔笛」ばかり・・)。

ベテラン、ペトラ・ラングのオルトルートも、会場を大いに沸かせていた。思っていたよりもストレートで綺麗な声だった。この役にはもう少し凄みがあればな、と思わないでもない。

テルラムントを歌ったユルゲン・リンは調子が悪かったのか、音程が不安定な部分も多々あった。「ばらの騎士」の時はそんなに気にならなかったが、声質も荒いように感じた。これが、テルラムントのキャラクターを見据えてのキャスティングだったら、凄い。

脇役の日本人勢が、これまた豪華。ブラバントの貴族4人が望月哲也、秋谷直之、小森輝彦、妻屋秀和という二期会では主役級の布陣。彼らは黒づくめにサングラスという恰好で登場。なんだか楽しんで演じているように見えた。伝令の萩原潤も、スッと通る気持ちのいい声。

新国立劇場合唱団は相変わらず素晴らしい。合唱が重要な役割を占めるこのオペラ、しかもワーグナーなのだから、合唱指揮の三澤氏の腕も鳴るところだろう。

ローエングリン登場の場面、男声合唱が各パート別々に「Schwan!(白鳥だ!)」と歌うところでは、各パートが舞台上の様々な場所から聞こえてきて立体的。生で観る醍醐味を、ここでも感じられた。

 

演出は、新国立劇場とはなぜか関わりが強いマティアス・フォン・シュテークマン。プレミエの時もそうだが、ブーイングがしっかりと出た。物をあまり置かない舞台はいいのだが、置いてあるものの意味の理解に苦しむ。

1幕では引っ越しの梱包用パネルのようなものが積み重ねられ、2幕1場では楽器輸送に使うような黒いトランクがおかれる。2場ではバネのような螺旋状のメタリックなオブジェがつりさげられている。3幕では果物を包む梱包材を変形させて様なオブジェが転がる。「守る」「保護する」という意図があるのだろうか。

舞台奥、正方形のセルが壁一面はりめぐらされ、そこに映像(というか色?)が映し出される。綺麗は綺麗なのだが、ローエングリン登場の時には白鳥の群れが羽ばたくような映像、祝祭の場面では花火が映るという陳腐なアイディアはいかがなものか。

 

なにはともあれ、主役2人の声の力で充実感を得たられた公演。しばらくは”フォークトの呪い”に縛られそうである。

2016.4.6 新国立劇場「ウェルテル」

新国立劇場 オペラパレス 14:00開演

 

意外にも、日本での上演回数が少ないマスネのオペラ「ウェルテル」。原語フランス語での舞台付きの本格的な上演は、新国立劇場が2002年に上演したのが最初だったという。サッバティーニ、アントナッチ、デ・カロリスという、五十嵐監督時代らしい豪華な、しかしイタリアンな顔ぶれである。そして今回が2回目。この劇場が、日本の「ウェルテル」を独占している。

 

”意外に”と最初に書いたのは、DVDなどの映像で触れる機会が決して少なくないオペラだから。特に最近は、カウフマンが主役を演じ、コッシュ、テジエらがプラッソンのタクトの下で歌ったパリ・オペラ座の映像が、”カウフマン・ファン”の間だけではなくオペラ界で大きな話題になった。

実はこの公演を生で見ており、プラッソンの血の通った指揮、自然なフランス語のディクション(フランス人がほとんどだから当たり前か)、オーソドックスながら美しい舞台装置、メランコリックなカウフマンのウェルテルに喝采を送ったものだった。

 

題材は、言わずと知れたゲーテの「若きウェルテルの悩み」。シューベルトの歌曲集なんかもそうだが、今の時代だと「中二病」と揶揄されてしまいそうな内容。しかし、当時この”ウェルテル”が当時の若者の心をつかみ、”ウェルテルぶる”ことが流行となったという。彼を模倣して、自殺まで流行ったというのだから、本物のムーヴメントである。

 

指揮者は当初、マルコ・アルミリアートと発表されていた。あのテノールのファビオ・アルミリアートの弟で、ウィーン国立歌劇場やメトの常連、オペラの職人的人気指揮者だ。しかし彼の降板が12月に発表された。理由は「本人の都合」。どういうことなのかはわからない。ちなみに、3月3日には、今回シャルロットを歌ったマクシモワが、ロジーナ役で出演したウィーン国立歌劇場セヴィリアの理髪師』を振っている。

そして代役として立てられたのがミシェル・プラッソン。そう、あのミシェル・プラッソンだ。フランスオペラ、特に『ウェルテル』ではクラウスとの名盤を残し、フランスオペラ界の生ける伝説と過言ではないプラッソン。彼が指揮すると聴いて、チケットを買いに走った方も多いのではないだろうか。例のパリ・オペラ座の公演も、彼の指揮で大成功を収めた。

もともと予定されていた人よりも、代役の方が大物、というパターンはたまーにあること。12年前の『道化師』も、カニオ役がセルゲイ・ラーリンからジュゼッペ・ジャコミーニ(!)に代わって狂喜乱舞したものだ。さすがに年齢を重ねてコントロールが不安定ではあったが、切れ味抜群のドラマティック・テナーは圧巻であった。

今回もそのパターンか!とウキウキしていたら、なんと転倒して腕を骨折したという残念なお知らせが。ここで登場したのが息子のエマニュエル・プラッソン。お恥ずかしながら見たことも聞いたこともなかったが、新国のバレエを過去に2回も振っている方らしい。

さて、このエマニュエルさん、動きを見るとかなり四角い動きなのだが、聴こえてくる音楽はしなやかなもの。テンポは、メリハリをつけてイキイキと、というよりはじっくり歌いこませていくタイプ。特にウェルテルの最も有名なアリア「春風よ、なぜ僕を目覚めさせるのか」では、一音一音を噛みしめるような速度で、ウェルテルの感情を吐露させていた。ただ、1,2幕のオーケストラはやや緊張感に欠け、ソロをはじめピシっと決まらないところがあったことは否めない。

 

実はタイトルロールも事前に変更が伝えられていた。当初はマイケル・ファビアーノという31歳の米国人が歌う予定だったが、「芸術上の理由により」降板した。しかし、調べてみると4月9日にパリ・オペラ座で『リゴレット』のマントヴァ公爵を歌っている。ネットで調べればこれぐらいのことは分かってしまう現代社会、怖いですね。

そして、次に名前が挙がったのがマルチェッロ・ジョルダーニ。中堅、と呼ぶにはやや歳が行き過ぎているイタリアのテノール。日本でも何回か歌っているし、METのライブ・ビューイングなどでもお馴染みの、言わば有名どころ。しかし、私としては彼がウェルテルというのは、しっくりこなかった。

彼も”交通事故”という災難に見舞われ、来日不可能に。このプロダクション、呪われているのではないかと思ってしまう。

そして最終的にロシアの若手ディミトリー・コルチャックに白羽の矢が立った(不吉な言い回しで失礼)。今年10月、マリインスキー歌劇場の『エフゲニー・オネーギン』で日本デビューするはずであったが、奇しくも今回の『ウェルテル』が日本初舞台となった。

結果として、彼で良かったと思う。音程が不安定な部分も多く、フラストレーションを感じるところがないでもないが、決めるところは決めてくれる。そしてこの若さで甘めの顔だち。マダムたちの心に響いたのではないだろうか。

指揮者、主役というオペラの2大主要人物が2回も変更になるというハプニングがあったが、これもオペラという生ものを観る上での一興。劇場関係者の方々には頭が下がります。

 

シャルロット役を歌ったエレーナ・マクシモワは深い声を持ったメゾ。2幕以降、最も聴衆の共感を得たのは彼女ではないだろうか。声量もあり、説得力のある表現、美貌も相まって、リアルなシャルロットであった。次回新国立劇場に登場するのは『カルメン』のタイトルロールとのこと。妖艶なカルメンを観られそうで期待が高まる。

アルベール役のアドリアン・エレートは、2月の小澤塾『こうもり』でアイゼンシュタインを歌っていたバリトン。この数か月、日本に居すぎじゃないか!と思ってしまうが、今回も気持ちのよい歌唱を聴かせてくれた。アイゼンシュタインとは対照的な真面目な役だが、きっちりかっちり、真面目なビジネスマンの風格があってよかった。

ソフィー役には砂川涼子。この役には贅沢な歌手のような気もするが、チャーミングで気の回る可愛いソフィーを演じていた。

子どもたちが大好きなお父さんの面白いお友達、シュミットとジョアンは村上公太森口賢二。この2人も存在感充分。演出上、比較的真面目なキャラ設定だったが、この2人ならもっと崩しても上手くできたのでは?

 

今回新制作のこのプロダクション。ニコラ・ジョエルのオーソドックスで落ち着いた舞台が好印象であった。1幕の新緑、3幕のソフィーの家の落ち着いた色味のインテリアが目に残る。

 

今回の日本デビューで話題となったコルチャックのこれからの活躍に思いを馳せながら、春の夜の中、帰途についた。この季節に観る「ウェルテル」、いいものだ。

 

 

2016.3.2 新国立劇場「イェヌーファ」

新国立劇場 オペラパレス 18:30開演

 

「人生ってこんなものだと思わなかった」

主人公イェヌーファは劇中でこう呟く。公演パンフレットの中で、演出家のインタビューの見出しにもなっていたセリフだ。

 

誰しも、人生は素晴らしいものだと信じたい。「人生山あり谷あり」「人生って素晴らしい」「人生いろいろ」「人生夢だらけ」。昨今いろんな言い回しがあるが、予想もつかない絶望的なことが起きたとき、心の底から自然に湧き出てくる言葉がイェヌーファの言葉ではないだろうか。

 

男前で、村娘の注目を集めるシュテヴァと結ばれた時、イェヌーファはこの先に待ち構える悲劇など予想だにしていない。これから訪れるのは彼と過ごす幸せな日々、そう思って幸福の絶頂にいたことだろう。

 

その一方、イェヌーファと幼馴染で、シュテヴァと腹違いの兄弟ラツァは、イェヌーファに想いを寄せつつ、屈折した嫉妬に打ちひしがれている。彼を軽くあしらうイェヌーファに悪気はなくとも、彼女の態度、表情、言葉が男心を深く傷つける。幸福な人には、苦しむ人間の暗さを想像できない。

 

こんな若い3人を見守るのは、ブリヤ家の家長であるおばあさんと、コステルニチカと呼ばれるイェヌーファの継母。コステルニチカはイェヌーファとシュテヴァの関係をよしとしていない。それは彼らが実質いとこ同士である以上に、シュテヴァがコステルニチカの死んだ夫同様、ブリヤ家の酒飲みで荒い気性を受け継いでいるからだ。

この男と結ばれてもその先に幸福はない、あるのは魂をすり減らすほどの苦悩のみ、ということをコステルニチカは知っている。それを体験した本人なのだから。

 

イェヌーファが身ごもったシュテヴァの子。コステルニチカにとって、そんなものは自分の人生、そして娘の人生において悪でしかない。小さな農村の狭いコミュニティの中では、その存在があるだけで社会的破滅を意味する。コステルニチカにはそうとしか思えない。その絶対的規範の前では、赤子の命の重さなど無に等しい。

 

この話の舞台はモラヴィアのとある村となっているが、少し前の日本の農村でもありそうな話である。閉鎖的なコミュニティ独特の「村社会」は、日本だけのものではないのだと、このオペラを観て再認識した。

 

絶望的な悲劇の締めくくりは、どん底で終わるのではない。ラツァはイェヌーファの過去を許し、2人は重荷を背負いながらも未来へと一歩を踏み出す。

 

今回のクリストフ・ロイの演出では、この物語が白い長方形の部屋の中で繰り広げられるが、ラストでは奥の壁が取り払われ、二人が暗闇へと歩き出すシーンで幕を閉じた。

 

始まり方もユニークであった。警察官のような制服を着た女性に導かれて、コステルニチカが長方形の部屋に入ってくる。女性の表情は冷たい。そう、ここは独房なのだ。不自然なまでに白い密室。コステルニチカの回想、あるいは供述がこの物語というわけだ。

 

コステルニチカは始終暗い色の服を着ている。一方、イェヌーファは目も眩むような真っ赤なワンピースに身を包んでいる。彼女の若さを象徴する色なのだろうが、白い空間で動き回る彼女は、ほとばしる鮮血のようにも感じられる。

 

歌手は総じて高水準。中でもコステルニチカを歌ったジェニファー・ラーモア に多くの拍手が送られた。ロジーナやカルメンの録音もあり、若いころはその容姿も相まって人気を博したメゾ。2003年の小澤征爾音楽塾の「こうもり」でオルロフスキーを歌っていたのを聴いたのが最後の実演。年齢を重ねて、複雑な役柄を見事に演じることのできる、別の魅力を持った歌手となっていた。こう考えるとメゾは年齢を重ねてからでないと、声も演技も様にならない役が多い。1人の歌手がいかに変化していくか、楽しめる声種であるといえる。

 

タイトルロールを歌ったのはミヒャエラ・カウネ。2010年、新国立劇場の「アラベッラ」のタイトルロールを歌っており、その時も安定感と役作りが魅力的であった。今回はなかなかの体力勝負だったと思うが、乱れない歌唱と演技だった。

 

ラツァのヴィル・ハルトマンは通る声ではないが、この役に求められるものは満たしていた。ベテラン、ハンナ・シュヴァルツは安定した存在感を発揮。今回は「サロメ」のヘロディアスと交互に歌ったわけだが、欧州の歌劇場ではままあることだ。しかし、これが日本の劇場で行われたということは、やっとこの劇場もオペラハウスとしての充実度を増してきたといえるのではないだろうか。

 

トマーシュ・ハヌスの指揮は、チェコ独特のリズムや節回しを色濃く感じさせるもの。音の鋭さと丸さをはっきりと出し、東響もしっかりとそれに応えていた。

日本のオペラ界を牽引する存在である新国立劇場。数年に1度、このような日本のオペラシーンに変革をもたらすような好プロダクションを届けてくれている。今後にも期待したいものだ。

2016.2.24 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトⅩⅣ 喜歌劇「こうもり」

愛知県芸術劇場 大ホール 18:30開演

 

 今回で14回目を迎えた小澤塾のオペラ。「こうもり」は通算3回目の上演となるが、毎回舞台装置が違う。

 

小澤氏は事前のインタビューで「いい歌手を集めたし、トラックの数も多い。いい上演になると思う」というようなことを言っていたようだが、確かに今回の装置は巨大なトラック何台分もの物量があったことは想像に難くない。なんでもMET所有、オットー・シェンクの演出で使用した装置だそうだ。

 

やや慎重に聴こえる序曲が終わり、幕が開くと客席からはため息が漏れた。正しい「こうもり」教育を受けたオペラ・ファンが想像するのと寸分違わぬアイゼンシュタイン家の居間。バイエルンやロイヤル・オペラの映像を見て育った人々も頷く、アイゼンシュタイン家の居間。奥にはサンルームがあり、なだらかに弧を描く長い階段が目を引く、アイゼンシュタイン家の居間。

 

 ここで繰り広げられる、家庭を少し脱した家庭劇。

 

消極的な意味で賛否両論ある演出家デイヴィッド・ニースだが、今回は王道を進みつつも、登場人物を生き生きとさせる細かいアクションがついていたように思う。例えば1幕終盤、アルフレートがアイゼンシュタインのナイトガウンを着てくつろいでいるところに刑務所長フランクが迎えにくる場面。ロザリンデは別れのキスを、指を介した間接キスで済まそうとするが、それは決してアルフレートを邪険に思っての行動ではない。むしろ、今まで逢瀬を重ねてきた2人の間だけで通じる”お遊び”なのではないか、と想像してしまう。アイゼンシュタインとの間以上に”ツーカー”感を感じさせるこのシーンは、意外に少ないのではないだろうか。

 

2幕のダンスシーンでは「ハンガリー万歳!」と「雷鳴と電光」が演奏されたが、後者では東京シティ・バレエ団のダンサーと歌手とが入り乱れて踊る。ここで人々は腕を組んで列を成し、足を上げて踊るのだが、ファルケだけがそこに入りそびれ、踊りの列に追い立てられてしまう。アイゼンシュタインをはじめ、様々な人にコケにされがちな「こうもり博士」の人物像がここで浮かび上がってくる。

 

名優・笹野高史演じるフロッシュはお決まりのギャグを交えつつ、フランクと日本語・ドイツ語をミックスして劇を進めていく形は面白い。

 

ギャグと言えば、アルフレートが他のオペラのアリアを歌って客席を沸かせるのが定番だが、今回は「誰も寝てはならぬ」の最後の" Vincero' "をオケ付きでやっていた。ネタに対する熱の入れ方が違うなぁ、と感心する一方、やりすぎな感も否めなかった。この他「ラ・トラヴィアータ」の二重唱をロザリンデとアルフレートが歌ったり、3幕でアイゼンシュタインが出頭する時に「メリー・ウィドウ」のダニロ登場のメロディーを口ずさんだり、細かいネタがちりばめられていた。しかしながら客席はついていけなかったのか、笑いは少なかった。個人的に、このダニロはかなりウケたのですが・・・。

 

歌手はアイゼンシュタイン役のアドリアン・エレートが役にピッタリ合っていた。軽く、気品のある声、考えていることがすぐにわかってしまうようなニヤケ顔、ハメを外して踊る姿、まさにアイゼンシュタイン。数年前に新国立劇場の「こうもり」で同役を観たが、以前にも増してこの役が身についていたように思う。

 

最近米国のみならず欧州の歌劇場でも名前をよく見かけるディミトリー・ピタスは、明るい声が心地いいテノール。こちらも能天気なアルフレートによく合う声だった。ただ序盤は音程がフラット気味。

 

フランクを歌ったデール・トラヴィスは初めて聴くが、張りがあり非常に綺麗な声のバス・バリトン。米国ではかなり活躍しているようだが、是非もっと主要な役で聴きたい!と思わせる歌手だ。

 

ロザリンデ役のタマラ・ウィルソンはまだ若いようだが、中低音が充実したソプラノ。「チャールダーシュ」では彼女の持ち味を十分に発揮。ドスの効いた低音で、所謂”ハンガリー風”を演出していた。アイゼンシュタインもアルフレートも、彼女を抱き上げることはできないだろう、という見た目ではあった。

 

小澤オペラでは常連のベテラン・キャラクター・テナー、ジャン=ポール・フーシェクールはさすがに歳を感じさせる声ではあったが、その身長、安定の演技で存在感を示し、舞台を引き締めた。アデーレ役のアナ・クリスティはやや声が細いものの、綺麗な高音をもつソプラノ。ただアジリタは弱く、レガートで歌っている部分が多かった。

 

ファルケ役のザッカリー・ネルソンは悪くないのだが、いかにも「アメリカ人」といった印象を受けるざっくばらんな演技と声(ざっくばらんな声って何だ!と聞かれても困りますが、そういう印象なのです)。オルロフスキーのマリー・ルノルマンは期待していたのだが、明らかなる声量不足。しゃがれた声でアンニュイな青年貴族の雰囲気は出ていたのだが・・・。

 

指揮は全体を通して穏やかなテンポ。クライバーのような「はち切れんばかりの活気」がない代わりに「優雅さ」の片鱗を感じることのできる箇所もあった。ウィンナ・ワルツはやはり難しいらしく、あまり無理して”ツッかけよう”としていない三拍子に留まっていた。やりすぎよりは印象がよい。

 

塾生たちのオーケストラはやや音程が・・という部分がなくはなかったが、充分なレベル。合唱は非常にまとまりがよく、聴いていて気持ちよかった。松下京介が合唱指揮で入っており、これからの彼の活躍が期待できる仕上がりとなっていた。

 

5階席の中盤の列に座っていたため、ピットの中の小澤氏は全然見えなかった。なのでどこで村上氏と振り分けをしていたかも見えなかった。

 

5階席は、オペラを観に来たというより小澤さんを見に来た人々で埋まっており、ピット袖から「コンコン」という乾いた音が聞こえると、多くの人が起立してピットをのぞき込んでいた。それは「身を乗り出して」という類の生易しいものではなく、ほんとうに「起立」していたのだ。

 

そういう区域だからこそ、周りの人々は装置やストーリー、ギャグやダンスなどへの反応が素直で、気取ることなく笑い、歓声を上げていた。

 

終演は22時を回り、地下鉄に通じる地下道は閉鎖されていた。人々は北風吹きすさぶ名古屋の街へと放出された。帰りに寄った店では、3組の「こうもり帰り」客に遭遇し、そのうち2組がスパークリング・ワインをボトルで注文していた。すべて泡のせいにして夜を楽しむ。そんなことができる大人に、わたしはなりたい。

 

 

小澤征爾音楽塾HP

http://www.ongaku-juku.com/j/program/2016/

2016.1.11 ロームシアター京都プロデュース・オペラ「フィデリオ」セミ・ステージ形式

ロームシアター京都 メインホール 17:00開演

 

1月10日に、京都会館をリニューアルしてオープンしたロームシアター京都のオープニング記念公演。一般の観客を入れての公演はこれが初ということなので、杮落とし公演ということになる。

 

平安神宮の目と鼻の先、話題の蔦屋書店も入っている。この日は向かいの「みやこめっせ」で成人式をしていたということもあり、様々な種類の人々で劇場周辺はごった返していた。周辺警備をしていた警備員は劇場の方の事情をはよく知らないらしく「今日、あれほら、有名な人のオペラやるんやろ。ほら、小澤さんの」という声が聞こえてきた。

 

東京文化会館と同じく前川國男氏の建築。屋根部分のコンクリートの張り出しはほとんどそのまま東京文化だ。

 

劇場に足を踏み入れると、廊下には政治家、芸術家、芸能人ら著名人や、様々な企業から贈られたむせ返るようなスタンド花の数々。人々は初めて入る劇場でクロークを探し求め、スタッフはその案内に追われる。すべてが初めて、そしてすべてが目新しい。

緊張した面持ちの劇場スタッフ、劇場に似つかわしくない無骨なスーツに身を包んで人々を圧倒するようにズラリと並ぶローム社員。良し悪しにかかわらず、劇場のオープンというのはどこかドキドキする。

初めての劇場なので、いつもより早く劇場に入り各階の座席に座っていろいろと試してみる(同じことをしている諸兄を多くお見かけした)。2階以上の席は正面の席でも半分以上の座席が屋根に覆われる。これで聴こえてくる音は大きく変わってくる。特に最上階は頭のすぐ上に照明器具があるような感覚になり、その圧迫感たるやなかなかのものである。

 

京都を拠点に活動する劇団「地点」の三浦基の演出によるセミ・ステージ上演。開演前から舞台上部のスクリーンには客席の俯瞰ライブ映像が映し出され、これから始まるオペラは”ただのオペラ”ではないことが暗示される。

 

通常、オーケストラが陣取るピットは空っぽ。オーケストラは舞台の上におり、その奥に組まれた金属製の足場のようなスペースの上で歌手たちが歌う。ピットの中では赤い装束を身にまとった劇団員が1人、また1人と増えていき、 最大4人が忙しく歩き回る。ぶつかりそうでぶつからない、魔法陣を描くような奇妙な動き。シャマラン監督の『ヴィレッジ』、またはキューブリック監督の『アイズ・ワイド・シャット』を彷彿とさせる。

 

片山氏によるプログラムノートの中でも言及されていたが、「フィデリオ」は”転換””逆転”を象徴的に扱った劇。レオノーレは夫を獄中から救うために(外面的にのみであるにしろ)女から男に”転換”し、権力を振りかざして男の命を意のままに扱う悪漢ドン・ピツァロの立場は、大臣到着のラッパで”逆転”、地に落ちてしまう。当時の人々が肌で感じた「革命」というものを、ベートーヴェンはこの劇の中に見出したのであろう。

この”逆転”を象徴したピットと舞台の扱い方は非常に興味深い。 

ドイツ語のセリフはカットされ、舞台左右に始終立っている赤装束の男女が独特の日本語の語りで劇を進める。以前、地点の「かもめ」を観たが、それと同じような語り口。”言葉のライトモティーフ”とでもいうような、特定の単語にそれぞれの抑揚をつけて読む。個人的にはこのセリフ回しはクセになっており、面白みも感じるが、”オペラ”を観に来た多くの方には奇妙に、そして不快に響いたかもしれない。

 

音楽面では、まず下野竜也のピシっとキマった指揮がいい。京響のシンフォニックな響き、縦の揃ったアンサンブルも非常に小気味よい。

歌手陣はフロレスタン役の小原啓楼の声の力が際立っていたが、それ以外の歌手はオケに埋もれてしまうこともしばしば。マルツェリーネ役の石橋栄実は初めて聴く方。粗削りな部分もあるものの、声自体はレオノーレよりもスッと通っていた。

黒ずくめの合唱は客席に手を振りながらピットから舞台に上がり、最後には舞台奥のスクリーンがすべて取り払われ、ナマの舞台裏が露わになる。これ、どこかで見たことがあるがどこだったろう。思い出せない。

 

フード付きの赤装束が、いくら逃げても逃げ切れない呪縛のように脳裏にチラチラと蠢く。それをベートーヴェン歓喜の音楽が追い払い、幕となった『フィデリオ』。しかしあいつらは、舞台の奥でなおも蠢いていた。

 

ロームシアター京都 公演ページ

「フィデリオ」セミステージ形式|公演・イベント|ロームシアター京都